駅の改札を出たら、もうその人が立っていた。
並んでホテル街まで歩いて、ラブホテルのパネルの前で固まって、エレベーターの中で柔軟剤の匂いがした。
女性用風俗のセラピストとの初対面。
想像していたのと全然違って、鼻の奥がつんとした。
改札を出たら、もうその人が立っていた

駅の改札を出た瞬間、目が合った。
柱の横に立っている人がいて、紺色のジャケットに白っぽいシャツ。
清潔感はあるけどキメすぎていない。休日にカフェにいても違和感がないくらいの、普通の人。
その人が軽く会釈して、こちらに歩いてきた。
「○○さんですか?」
声が小さかった。聞こえないくらい、ではなくて、ちょうど私にだけ届くくらいの音量。
改札を出てくる他の人には聞こえないような、そういう声。
頭が真っ白になった。
「は、はい」
自分の声がかすれていた。
「はじめまして。今日はありがとうございます」
そう言って、少し頭を下げた。
その仕草が丁寧で、でも堅すぎなくて、なんだか不思議だった。
プロフィール写真を穴が開くほど見た夜のことを思い出す。
あの小さな四角い写真の中の人が、今ここにいる。写真より少しだけ背が高い気がする。
笑うと目が細くなるところは同じだった。
想像していたのと、違う。
もっとギラギラした感じを想像していたのかもしれない。
ホストみたいな、とか。それか逆にすごく事務的な感じ。どちらでもなかった。ただ穏やかに立っている人が、そこにいた。
駅前の横断歩道を並んで渡る

「じゃあ、行きましょうか」
そう言われて、歩き出す。駅前のロータリーを抜けて、横断歩道を渡る。
並んで歩く距離感が、近すぎず遠すぎない。
半歩くらい前を歩いてくれていて、でもときどき振り返ってこちらのペースに合わせてくれる。
信号待ちのあいだに「今日暑いですね」と言われた。
暑いかどうか、正直わからなかった。緊張しすぎて気温を感じる余裕がない。
でも「そうですね」と返した。普通の会話。普通の返事。こんなに普通でいいのかと思った。
ホテル街に向かって歩いている。それはわかっている。
大通りから一本入ると、急に空気が変わった。
ネオンの看板がちらほら見えてくる。昼間なのに妙に静かな通り。
こういう場所を知らないわけじゃない。昔、彼氏と来たことがある。
でもそのときは彼が先に歩いて、私はついていくだけだった。
どこに入るかも、彼が決めてくれた。
今は違う。隣にいるのはセラピストさんで、選ぶのは私。
その事実がじわじわと迫ってくる。
ラブホテルの入り口をくぐった瞬間の、あの空気

「この辺りで大丈夫ですか?」
セラピストさんがそう聞いてくれた。
目の前に何軒か並んでいるホテルの中から選ぶらしい。
選ぶって言われても…
外観を見ても、何がどう違うのか全然わからない。
片方はピンク色っぽい壁で、もう片方はもう少し落ち着いた感じ。どっちがいいんだろう。
「どこでも大丈夫です」と言いかけて、それは丸投げすぎるかなと思って口をつぐんだ。
「あの、どこがいいとかありますか?」
聞き返してしまった。情けない。
ラブホテルの選び方をセラピストさんに聞いている自分が、なんとも言えない。
「お部屋がきれいなところがいいですよね。こっちのほう、わりと清潔感あっていいですよ」
さらっと言ってくれて、少しだけ救われた。
でも、ああ、ここに来たことあるんだ。とも考えてしまった。
自動ドアをくぐる

中に入ると照明が暗くて、一瞬目が慣れなかった。
甘い芳香剤の匂いがふわっと鼻をつく。
壁一面に光るパネルが並んでいて、部屋の写真がずらっと表示されている。
パネルの前に立った。
写真の横に料金が書いてある。4,800円、5,500円、7,200円。
もっと高い部屋もある。
どれを選べばいいんだろう

高い部屋にしたほうがいいのかな。セラピストさんに失礼にならないように。
でも自分で全部払うわけだし、施術料金だけでけっこうな金額なのに、ここでさらに高い部屋を選んだら、お財布的にきつい。
かといって一番安い部屋を選んだら、ケチだと思われるだろうか。
彼氏と来たときは、こんなこと考えなかった。
彼が「ここでいいか」と言って、ボタンを押して、お金も出してくれて。
私は横に立っているだけでよかった。
今、自分で選んでいる。自分のお金で。自分の意思で。
パネルの前で固まっていたのは、たぶん数十秒だったと思う。
でも体感では何分にも感じた。
「迷いますよね。このくらいの部屋で十分きれいですよ」
セラピストさんが、真ん中くらいの価格帯の部屋をさりげなく指してくれた。
押しつけがましくなく、でも迷っている私を助けるような言い方で。
ボタンを押した。指先が少し震えていた。
エレベーターの中の数十秒

鍵を取って、エレベーターに乗る。
狭い箱の中で二人きりになった。
階数の表示が変わっていく。2、3。
沈黙が怖かった。何か話さなきゃと思ったけど、何も浮かばない。
「初めてだと緊張しますよね」
セラピストさんのほうから声をかけてくれた。
あとから思えば、この数十秒の沈黙を埋めてくれたのは気遣いだったんだと思う。
狭い空間で無言のまま目的の階に着くのは、初めての人にとってはきっと耐えがたい。
そういうことを知っている人なんだなと、ぼんやり感じた。
「すごく、緊張してます」
正直に言ったら、少しだけ笑ってくれた。
「僕もちょっと緊張してます」
嘘かもしれない。何人もの女性に会ってきた人が、緊張なんてしないだろう。
でもその言葉を聞いて、肩の力がほんの少しだけ抜けた。
嘘でもよかった。
ふと、隣から柔軟剤みたいな匂いがする。香水じゃない。
もっと生活に近い、洗いたてのシャツの匂い。
なんでこんなことに安心するんだろう。でも安心した。
この人は今日のために服を洗って、アイロンをかけて、ここに来てくれたんだと思ったら、少しだけ胸のあたりがゆるんだ。
エレベーターが止まって、ドアが開く。
部屋のドアの前で言われた一言

廊下を歩く。カーペットの上を歩く足音がやけに大きく聞こえる。
ドアがいっぱい。このドアの向こうでは男女がセックスしてるのか。
セックス…最後にしたのいつだろう。
いや、女風は本番はないけど、手前まではいく。
「怖くなかったですか?」って何度も検索したことを思い出した。
口コミで「優しい人でした」と書いてあっても、結局そんなの行ってみないとわからない。
わからないまま来てしまった。
部屋の前で立ち止まったとき、セラピストさんがこちらを振り返った。
ドアの前で泣く

「入る前に一つだけ。今日は○○さんのペースで大丈夫ですから。嫌なことがあったらいつでも言ってくださいね」
鼻の奥がつんとした。
泣きそうになったのだと気づくのに数秒かかった。
なんで。まだ何も始まっていないのに。ドアも開けていないのに。
たぶん、「嫌なことがあったら言っていい」と言われたことに反応した。
嫌だと言っていい場所に、私は今いるのだと。それがどれだけ久しぶりのことか。
仕事でも日常でも、「嫌だ」は言わない。言えない。
空気を読んで、合わせて、笑って、やり過ごす。それが当たり前になっていた。
鍵を差し込む音がして、ドアが開く。
部屋の中は間接照明がついていて、薄暗いけど嫌な暗さじゃなかった。
さっき自分で選んだ部屋。大きなベッドがあって、奥にバスルームが見える。テレビの電源がついていたけど、音は消えている。
靴を脱いで、部屋に入った。
足の裏にカーペットの感触。冷たくも暖かくもない、ちょうどいい温度。
女風セラピさんからお水をもらった

「座ってください。お水、飲みますか?」
カバンから水を出してくれた。ありがたかった。喉がからからだったから。
事前にお水買ってたのかな。
後に「女風のお水問題」という話題を知るのだが、このときは知るよしも無かった。
ペットボトルの水を一口飲んで、ベッドの端に腰を下ろす。
ソファがある部屋にすればよかったかな、と今さら思う。
ベッドの端に座っている自分と、少し離れた場所に立っているセラピストさん。この距離感をどうすればいいのか、わからない。
セラピストさんが向かいの椅子に座ってくれた。目が合う。
「じゃあ、少しお話しましょうか」
その声を聞きながら、私はぼんやりと思っていた。
来てよかったのかどうか、まだわからない。
でも、来なかったら一生わからないままだった。
パネルの前で震えた指のことも、エレベーターの中の柔軟剤の匂いも、「嫌なことがあったら言っていい」と言われて泣きそうになったことも。
全部、来なければ知らなかったこと。
ペットボトルを持つ手が、まだ少しだけ震えている。
次の日記では、「今日はどうされたいですか?」と聞かれたときのことを書く。
あの言葉を聞いた瞬間に何が起きたか、まだうまく整理できていないけど。

