ペットボトルの水を握りしめたまま、ベッドの端に座っていた。
「今日はどうされたいですか?」
たったそれだけの言葉で涙があふれた。なんで泣いているのか、自分でもわからない。
25歳、女性用風俗の体験中に起きた、予想していなかったこと。
「少しお話しましょうか」のあとの沈黙

ペットボトルの水を二口飲んで、キャップを閉めた。
手がまだ震えている。ベッドの端に座ったまま、膝の上に置いたペットボトルを見つめていた。
セラピストさんは向かいの椅子に座って、急かすでもなく、こちらを見ている。
「今日、初めてなんですよね」
うなずく。声が出なかった。
「じゃあ最初に、ちょっとだけ聞いてもいいですか」
またうなずいた。なんでも聞いてください、と言うつもりだったけど、喉がつかえて言葉にならない。
自分が何をしに来たのか、改めて突きつけられるような気がした。
ここに座っている理由を、この人に説明しなきゃいけないのかと思うと、胃のあたりがきゅっと縮んだ。
自分の話をする怖さ

「今日は、どういう経緯で予約してくださったんですか?」
経緯。
経緯って言われても、どこから話せばいいんだろう。
- 深夜にSNSで見かけたこと?
- 検索履歴を消しながら泣いた夜のこと?
- 予約フォームの前で40分固まったこと?
全部話したら何時間かかるんだ。
「あの…ずっと、誰かに触れてほしくて」
口から出てきた言葉は、思っていたよりずっと簡単だった。
「でも、恋人がいるわけでもないし。友達にも言えないし」
セラピストさんは相槌を打たなかった。ただ静かに聞いている。
その沈黙が怖くて、つい続けてしまう。
「こういうサービスがあるって知って、ずっと調べてて。でもなかなか予約できなくて」
言いながら、自分で自分にひいた。
なんて惨めな話なんだろう。25歳の女が、お金を払って男の人に触れてもらうために、ラブホテルのベッドの端に座って、震えながら自分の事情を説明している。
友達がこの場面を見たら、なんて思うだろう。
母親だったら。
考えたくなかった。
「今日はどうされたいですか?」

間接照明の光が天井にぼんやりと映っている。
テレビの画面は消えていた。さっきまでついていたような気がしたけど、いつの間にか消されていた。セラピストさんが消してくれたのかもしれない。
「ありがとうございます。話してくれて」
そう言われて、少し驚いた。ありがとう? 私の話に?
「じゃあ、一つだけ聞かせてください」
セラピストさんが少し前かがみになった。目が合う。逸らしたかったけど、逸らせなかった。
「今日は、どうされたいですか?」
その言葉を聞いた瞬間、何が起きたのか、自分でもよくわからなかった。
涙が出た。
声も出さずに、ぽろぽろと。
止められなかった。止めようとしたけど無理だった。まぶたを押さえたら余計にあふれてきて、指の間から落ちた。
なんで泣いてるのか、自分でもわからない

恥ずかしかった。
初対面の人の前で泣くなんて。しかもこれから施術が始まるっていうのに。お金を払ってるのに。泣いてどうするんだ。
でも止まらない。
「どうされたいですか」
たったそれだけの言葉。
仕事では毎日のように「どうしますか」と聞かれる。上司に、同僚に、取引先に。
でもそれは業務上の判断を求められているだけで、私の気持ちなんか関係ない。「どうしたいか」じゃなくて「どうするのが正解か」を答えるだけ。
友達との会話でも「どうしたい?」と聞かれることはある。
「ランチどこ行きたい?」「週末なにする?」
でもそれは予定の話であって、私の奥にある欲求を聞いてくれているわけじゃない。
この人は、「今日、あなたはどうされたいですか」と聞いた。
抱きしめてほしいのか。
触れてほしいのか。
ただそばにいてほしいのか。
私の望みを、私に聞いてくれた。
「触れてほしい」って認めたくなかったあの頃の私が、ここに来るまでどれだけかかったか。
ずっと蓋をしてきた。寂しいなんて思いたくなくて、触れてほしいなんて認めたくなくて、自分の欲求を見ないふりしてきた。
それを、「どうされたいですか」って、まっすぐ聞かれた。
セラピストさんは何も言わなかった

泣いている間、セラピストさんは何も言わなかった。
「大丈夫ですよ」とも「泣かないでください」とも言わなかった。
ティッシュを差し出してくれたけど、それ以外は何もしなかった。
ただ座って、待っていてくれた。
会社で泣いたときは、先輩が「泣くのはいいけど、切り替えようね」と言った。正論だと思う。でもあのとき欲しかったのは正論じゃなかった。
母に電話で泣いたときは、「大丈夫? なにかあったの?」と心配された。心配されると余計に泣けなくなる。
この人は、ただ待ってくれている。泣き止むまで。
何分くらい泣いていたんだろう。たぶん2、3分。もっと短かったかもしれない。でもその間、セラピストさんは椅子に座ったまま、穏やかな顔をしていた。
困った顔もしていなかった。引いてもいなかった。
こういう場面に慣れているのかな、とも思った。
泣く女性は多いのかもしれない。初めての女風で、セラピストの前で泣く人。きっと私だけじゃない。
そう思ったら、少しだけ楽になった。
振り絞って出した言葉

ティッシュで目元を押さえて、鼻をかんだ。化粧がもうぐちゃぐちゃだろうなと思ったけど、朝4回着替えて2回シャワー浴びたあの緊張感はもうどこかに消えていた。
「すみません、泣いちゃって」
「全然。よく泣かれる方いますよ」
やっぱり。
私だけじゃなかった。
「あの、さっきの質問なんですけど」
「はい」
「抱きしめてほしい、です」
言った。
言ってしまった。
顔が熱い。耳まで赤くなっている気がする。25歳の女が、初対面の男の人に「抱きしめてほしい」と言っている。お金を払って。
情けない。
でも、それが今の私の本音だった。
「寂しい」じゃなくて「触れられたい」と気づいたあの夜から、ずっとこの言葉を飲み込んできた。誰にも言えなかった。友達にも、母にも、ましてや職場の人にも。
「抱きしめてほしい」
それだけのことが、こんなに難しいなんて思わなかった。
返ってきた言葉

「わかりました」
セラピストさんはそう言って、少し笑った。
否定されなかった。変な顔もされなかった。
「じゃあ今日は、ゆっくりいきましょうね」
ゆっくりいきましょうね、という言葉の響きが、妙に沁みた。
急がなくていい。焦らなくていい。そう言われているような気がした。
窓の外から、かすかに車の音が聞こえる。
ここがラブホテルの一室であることは変わらない。お金を払って来ていることも変わらない。でも、さっきまでの後ろめたさが、少しだけ薄くなっている。
全部なくなったわけじゃない。こんなことしてる自分がまだ情けないとも思う。
でも今、「抱きしめてほしい」と言えた自分のことを、ほんの少しだけ、よくやったなと思った。

ペットボトルの水をもう一口飲んだ。今度は手が震えていなかった。
そういえば、さっきからお腹がすいている。朝、緊張で何も食べられなかったんだった。こんなタイミングで空腹に気づく自分がおかしくて、少しだけ口元がゆるんだ。
セラピストさんが立ち上がって、「じゃあ、準備しましょうか」と言った。
何の準備なのか具体的にはわからなかったけど、怖くはなかった。
さっき泣いたことで、何かが抜けたのかもしれない。
次の日記では、施術のことを書こうと思う。「安心して触れられる」というのがどういう感覚だったのか、まだ言葉にできていないけど。

