家を出たときは平気だった。改札にICカードをかざした瞬間、胃がずしんと重くなった。
電車に揺られながら「やっぱやめよう」を何度も繰り返す。
降りようと思った駅をいくつも通過して、それでもまだ揺れている。
女性用風俗の待ち合わせに向かう、土曜日の電車の中の話。
改札を通った瞬間に、胃が重くなった
家を出るときは、意外と平気だった。
朝の支度であれだけ混乱したのに、玄関のドアを閉めた瞬間、妙に落ち着いている自分がいた。
靴を履いて、鍵をかけて、エレベーターのボタンを押す。
いつもと同じ動作。通勤と同じ道を途中まで歩いて、いつもと違う路線の改札にICカードをかざした。
ピッ、という音がした瞬間、胃がずしんと重くなった。
ホームに降りる階段で、一段一段が遠く感じる。足がちゃんと動いているのか、自分でもよくわからない。
電光掲示板を見上げたら、あと3分で電車が来ると表示されている。
3分。
この3分の間にも「やめて帰ろう」という声が、頭の中で何回も反復していた。
電車のドアが閉まった後の静けさ
電車に乗った。土曜の昼間だから、車内はそこまで混んでいない。端の席が空いていたけど座らなかった。座ったら動けなくなりそうで。
ドアが閉まる。ゆっくりと景色が動き始める。
この電車に乗っている間は、まだ引き返せる。次の駅で降りれば、何事もなかったことにできる。予約のキャンセル連絡をして、家に帰って、いつもの土曜日を過ごせばいい。
つり革を握る手に、じわっと汗がにじんだ。
スマホを取り出して、予約確認のメッセージを開いた。待ち合わせ場所と時間がそこに書いてある。何度も確認したはずなのに、文字がうまく頭に入ってこない。画面をスクロールして、また戻して、同じ行を3回読んだ。
窓の外を見る。知ってる駅を一つ通過した。次の駅で降りようか。まだ間に合う。
降りなかった。
やっぱやめよう、の波がくるたびに
乗り換えの駅で一度ホームに出た。人の流れに沿って歩きながら、足が止まりそうになる。
改札に向かう人の背中を見て、私もあっち側に行けばいいのにと思った。改札を出て、反対側のホームに行って、家に帰る電車に乗ればいい。
でも足は乗り換え先のホームに向かっている。
自分の意思で歩いているのか、慣性で動いているのかわからない。
たぶん、止まるほうがエネルギーがいるんだと思う。ここで急に立ち止まって、踵を返して、帰る。その決断のほうが、このまま進むより重い。
それって、行きたいから行くのとは違う。
わかってる。
乗り換えの電車に乗った。さっきより空いていて、今度は座った。座った途端、膝の上に置いた手がかすかに震えていることに気づいた。
予約フォームの前で40分固まったあの日のことを思い出す。あのときも手が震えていた。送信ボタンを押すか押さないかで、あれだけ悩んだのに。押してしまったら、こうやって電車に乗る日が来る。当たり前のことなのに、あのときは想像できなかった。
フォームの前で止まっていた日の自分に言いたい。押したら本当に来るよ、この日が。
ふと見えた親子連れのこと
向かいの席に、小さい子どもを連れたお母さんが座っていた。子どもは3歳くらいで、お母さんの膝の上で絵本を広げている。お母さんが何かささやくと、子どもがきゃっと笑った。
見ていたら、喉の奥がきゅっとなった。
別にあれが欲しいわけじゃない。子どもが欲しいとか、ああいう家族が欲しいとか、そういう話じゃない。
ただ、ああいうふうに誰かに触れていることが、あの人たちにとっては当たり前なんだなと思った。
膝の上に誰かがいる。その人の体温がある。それが普通の土曜日。
私の土曜日は、これから知らない男の人に会いに行く。お金を払って。
やめようかな。
この「やめようかな」はもう何回目だろう。家を出る前に2回、改札の前で1回、電車に乗ってから3回、乗り換えのホームで1回。数えたらもう7回くらい思ってる。
でも電車は止まらない。私も降りない。
あと2駅、という表示を見たとき
車内アナウンスが流れた。目的の駅まで、あと2駅。
スマホを見たら、待ち合わせの15分前だった。時間通りに着く。
ちゃんと逆算して家を出た自分がちょっとおかしい。やめようかなと思いながら、遅刻しないように計算はしていた。
何やってるんだろう、私。
トートバッグの中を確認する。財布、スマホ、ハンカチ、リップ。
朝、何を持っていけばいいかわからなくて3回くらい中身を入れ替えた。
今さらだけど、ティッシュをもう1個入れておけばよかった。泣くかもしれないから。泣かないかもしれないけど。
窓の外の景色が、知らない街に変わっている。降りたことのない駅。行ったことのない場所。こういうところに、女性用風俗の待ち合わせ場所がある。
ふと、今朝4回着替えたことを思い出して、少しだけ笑いそうになった。あれだけ悩んで選んだ服、相手の人はたぶん何とも思わない。
電車が減速し始めた。あと1駅。
心臓がうるさい。自分の鼓動が耳の中で響いている。手のひらが湿っていて、つり革をもう一度握り直した。
怖い。やっぱり怖い。
でも、怖くなかったら来ていない。怖いからこそ、ここにいるのかもしれない。
怖いのに来た、ということが、自分にとって何か意味があるような気がする。気がするだけかもしれないけど。
アナウンスが駅名を告げた。
立ち上がった。足が少しふらついた。ドアの前に立つ。
ガラスに映った自分の顔は、思ったより普通だった。普通の女の人がドアの前に立っている。この人がこれから何をしに行くのか、誰にもわからない。
ドアが開いた。
ホームに降りた瞬間、春の空気がふわっと顔に当たった。思ったより暖かい。
改札に向かって歩き出す。足は動いている。まだ震えてるけど、動いている。
待ち合わせ場所はここから歩いて5分くらいのはず。スマホの地図を開いた。青い点が、ゆっくり目的地に近づいていく。
やっぱやめよう、はもう思わなかった。
嘘。まだ少し思ってる。でも、足は止まらなくなっていた。

