木曜の夜23時、女性用風俗の予約フォームを開いた。名前の欄にカーソルが点滅している。
打てばいいだけ。たったそれだけのことなのに、指が動かない。
40分間、テーブルの前で固まっていた夜のこと。
「私なにやってるんだろう」を何度も繰り返した、予約直前の記録。
予約フォームを開いたのは、木曜の夜、23時すぎ
布団の中じゃなかった。
いつもなら寝る前にスマホをいじるのが定番で、女風のサイトを見るのもだいたいベッドの上だった。
でもこの日は違って、仕事から帰って、シャワーを浴びて、髪を乾かして、ドライヤーのコードを片付けたあと、なぜかリビングの小さなテーブルについた。
椅子に座って、スマホをテーブルに置いて、画面を開いた。
予約フォーム。
「ご予約はこちらから」という文字の下に、名前と電話番号とメールアドレスの入力欄が並んでいる。
- 希望日時。
- 希望コース。
- 指名セラピスト。
- 備考欄。
これだけ。
たったこれだけなのに、指が動かない。
テーブルの上に置いた手を見たら、爪の先がほんの少し白くなっていた。
力が入っているのだと気づいて、意識的に指を開いた。
時計を見た。23時12分。
カーソルが「お名前」で止まったまま
最初の入力欄は「お名前」だった。
本名を書くのか、偽名でいいのか。
そういう実務的なことが頭をよぎる前に、名前の欄をタップした瞬間、キーボードがぬるっと画面の下から出てきて、それだけで心臓がどくんと跳ねた。
打たなきゃ。打てばいいだけ。自分の名前を、ひらがなで、打つだけ。
なのに指が止まっている。画面の上のほうに「女性用風俗ご予約フォーム」と書いてある。
女性用。
私は女性。
合ってる。
何も問題ない。
問題ないのに、ここから先に進むということがどういう意味を持つのか、急に身体のほうが理解してしまったような感覚があって、お腹のあたりがぎゅっと冷たくなった。
これを送信したら、私は「女性用風俗を予約した人」になる。
検索しているだけの人とは違う。口コミを読んでいるだけの人とも違う。予約をした。送信ボタンを押した。自分の意思で。
その事実が、もう取り消せなくなる。
テーブルの上にスマホを置いて、両手を膝に乗せた。深呼吸しようとしたけど、息が浅い。
40分間、何をしていたか
正確に言えば、何もしていなかった。
スマホの画面を見つめて、手を伸ばしかけて、やめて。また見つめて、別のところを触って、やめて。
途中で一回、画面がスリープになった。暗くなった画面に、自分の顔がぼんやり映って、反射的にスマホを裏返した。
今の自分の顔を見たくなかった。
どんな顔をしてるんだろう。情けない顔だろうなと思う。
木曜の夜に、ひとりでテーブルに座って、女性用風俗の予約フォームと睨み合っている25歳の女。
笑えない。笑いたいのに笑えない。
途中で立ち上がって、冷蔵庫を開けた。何かを食べたかったわけじゃない。
ただ、テーブルの前にいる自分から少し離れたかった。冷蔵庫の中を3秒くらい見つめて、何も取らずに閉めた。
また座った。
スマホを表にして、予約フォームがまだ開いていることを確認した。お名前のところにカーソルが点滅している。
私、なにやってるんだろう。
この言葉、もう何回目だろう。最初に女風のことを知った夜に「何考えてるんだろう」って書いた。
あのときと同じセリフを、まだ繰り返している。
進歩がない。何も変わっていない。
いや、変わったことはある。あのときは検索しただけだった。
今は予約フォームの前にいる。
あの夜の「何考えてるんだろう」と、今夜の「なにやってるんだろう」は、同じ言葉なのに重さが全然違う。
5分おきに時計を見ていた
23時12分にフォームを開いて、最初に時間を確認したのが23時19分。
そこから23時25分、23時31分、23時38分、23時44分。
ほぼ5分おきに時計を見ていた。
時間を確認したからって何かが変わるわけじゃないのに、何かに追われているような気がして、何度も見てしまう。
日付が変わるまでに決めなきゃ、とか思っていたわけじゃない。
別に今日じゃなくてもいい。明日でも来週でも来月でもいい。急ぐ理由はどこにもない。
なのに、今を逃したらもうできない気がした。
この気持ちが、今この瞬間にある。この、「やるかやらないか」の境目に自分がいる緊張感。
この緊張感が消えたら、たぶんまた「調べているだけの人」に戻ってしまう。
ブックマーク30件、同じ記事を何度も読んで、「大丈夫だよ」を誰にも言ってもらえない夜。
あそこにまた戻るのかと思ったら、それはそれで怖かった。
打ち込んで、消して、また打ち込んだ
23時48分。
自分の名前をひらがなで打ち込んだ。
打った瞬間、指先がじんとした。冷たいのか痺れているのかわからない。
メールアドレスを入力した。普段使いのやつ。
ここで専用のアドレスを作ったほうがいいのかなと一瞬考えて、でもそこまでする自分が嫌で、いつものアドレスをそのまま打った。
電話番号。ここで手が止まった。
電話番号を入れたら、向こうから電話がかかってくる可能性があるんだろうか。
着信履歴に知らない番号が残る。もし誰かにスマホを見られたら。
一人暮らしなのに。
この一文、前にも何回か書いた気がする。一人暮らしなのに検索履歴を消す、一人暮らしなのにスマホを伏せる。
そして今、一人暮らしなのに着信履歴を心配してる。
誰にもバレない。バレようがない。
頭ではわかっているのに、身体のほうが勝手にブレーキを踏む。
電話番号を打った。希望日は、次の土曜日。コースは迷ったけど、120分がいいのかな。
理由は特にない。ただ、90分だと短すぎて慌ただしそうで、180分は長すぎて怖かった。
消去法。
セラピストの指名欄。
ここで固まった。
プロフィールは何十人分も読んだ。でもいざ名前を書くとなると、選ぶという行為そのものに罪悪感がある。
人を選んでいる。サービスだとわかっていても、生身の人間を選んでいるという事実が、喉のあたりにつかえる。
「お任せ」という選択肢があった。お店が合いそうな人を選んでくれるらしい。
お任せにした。
後々考えたら女風でフリーなんて恐ろしい。
備考欄。
「初めてです」と打とうとして、やめた。打って、消した。また打った。消した。
3回繰り返して、結局「初めての利用です。緊張しています」と書いた。
「緊張しています」は余計かもしれない。でも消す気力がもうなかった。
送信ボタンの上で、指が止まる
全部入力し終わった。
画面を上にスクロールして、もう一度最初から確認する。
- 名前
- メールアドレス
- 電話番号
- 希望日時
- コース
- 備考
全部入ってる。間違いはない。
あとは「送信」を押すだけ。
親指がボタンの上にある。あと1センチ。画面に触れれば終わる。
触れない。
テーブルの上の麦茶のペットボトルが目に入った。コップに注ごうとして、そういえばコップが流しに置きっぱなしだと思い出して、でも立ち上がらなかった。
23時52分。
エアコンの風が首筋に当たって、寒いなと思った。設定温度を確認しようとリモコンに手を伸ばしかけて、やめた。
何をやってるんだろう、私は。麦茶とかエアコンとか、そんなことで気を紛らわそうとしてる。
公式サイトを5秒で閉じてた頃と同じだ。
あのときも、見たいのに見られなくて、開いて閉じてを一週間繰り返した。あのループの、もっと切実なバージョンが今起きてる。
押せばいい。押すだけ。
でもこのボタンを押した瞬間に、自分が変わってしまう。何かが決定的に変わる。
その「何か」がわからなくて、怖い。
部屋の中の、やけに大きな音
フォームを見つめたまま動けずにいたら、冷蔵庫がぶうんと音を立てた。
普段は気にならない。でもこの静かさの中では、冷蔵庫の音がやけに大きくて、一瞬びくっとした。
時計を見た。23時54分。
窓の外は何も見えない。カーテンの向こうは真っ暗で、さっき見たマンションの灯りもほとんど消えている。みんなもう寝てるんだろう。
木曜の夜中に、予約フォームの前で固まっている人間なんて、たぶんこの街に私しかいない。
いるかもしれないけど。でもそう思ったほうが孤独で、孤独なほうが今はしっくりくる。
ふと、小学生のときに飛び込み台から飛べなかったことを思い出した。
夏休み、市民プールの3メートルの飛び込み台。
友達はみんな飛んでいたのに、私だけ台の上に立ったまま動けなくて、後ろに並んでいた男の子に「早く飛べよ」って言われて、泣きそうになりながら結局はしごで降りた。
あのときの足の裏の感覚を、今も覚えている。青い台のざらざらした表面。
つま先が少しはみ出して、下の水面が揺れていて。飛べば一瞬で終わるのに、その一瞬が永遠みたいに思えて。
今もたぶん、同じ場所に立っている。
押せない
23時56分。
押せない。
考えるのをやめたわけじゃなかった。覚悟が決まったわけでもなかった。
ただ、もうこの40分を続けるのが限界だった。
固まっている自分に耐えられなくなった。フォームの前で動けない自分を、これ以上見ていられなかった。
親指が画面に触れた。
予約ボタンじゃなくてリセットボタン。
「入力フォームをリセットしますか?」と表示された。
白い画面に黒い文字。
押した。
それだけ。
何も起きなかった。
部屋は静かなまま。冷蔵庫はまだぶうんと鳴っている。
エアコンの風は相変わらず首筋に当たっている。外は暗い。何ひとつ変わっていない。
スマホをテーブルに置いて、椅子の背もたれに身体を預けた。天井を見た。
白い天井。小さなシミが一つある。前から気になっていたけど、いつも忘れていたやつ。
涙は出なかった
泣くかなと思ったけど、泣かなかった。
代わりに、身体がすごく重かった。
ずっと力が入っていたんだと思う。肩が石みたいに固くなっていて、首が回らない。
両手をテーブルに載せたまま、しばらくぼんやりしていた。
嬉しい、ではない。達成感、でもない。後悔、かもしれない。でもそれともちょっと違う。
検索しているだけの自分には、もう戻れない。
口コミを読んで「いいな」って思うだけの自分にも。予約フォームの前で固まっている自分にすら。

