高校からの友達、愛(仮名)と久しぶりにランチした。
駅の改札前で待ち合わせて、向こうから歩いてきた愛を見たとき、一瞬わからなかった。髪を巻いていて、ネイルがピンクで、なんか全身から光が出ていた。大げさじゃなく。
3ヶ月前に会ったときはポニーテールにすっぴんマスクだったのに。
「なんか変わった?」って聞いたら、へへ、って笑いながら「実は彼氏できたんだよね」って。
おめでとう。
ちゃんと言えた。声も、顔も、たぶん大丈夫だった。少なくとも私はそう信じたい。
「見て見て」って差し出されたスマホ画面
お店に入って、パスタを頼んで、そこからはずっと彼氏の話だった。
出会いは職場の飲み会で、最初は全然タイプじゃなかったけど、LINEしてるうちにどんどん好きになって、告白されたのは先月で。
へぇ、すごいね。よかったじゃん。
私の相槌は、たぶん間違ってなかったと思う。声のトーンもちゃんと調整できてた。こういうのは得意だ。得意っていうか、もう染みついてる。
パスタを巻きながら、愛がスマホを差し出してきた。
「見て見て、昨日のLINEなんだけどさ」
画面に、彼氏とのやりとりが映っていた。
「今日も遅くなりそう。ごめんね」「大丈夫だよー。気をつけて帰ってきてね」「ありがとう。○○ちゃんも早く寝なよ」「はーい」
なんでもない会話。ドラマみたいなセリフがあるわけでもない。甘ったるくもない。
なのに、胸がきゅっと縮んだ。
「気をつけて帰ってきてね」
この一言を、当たり前に打てる関係。自分のことを気にかけてくれる人がいて、その人に「気をつけて」って言える日常。
愛にとっては普通のこと。なんてことない火曜日の夜のやりとり。
それが、私にはない。2年以上、ない。
「いいなあ」って言った。笑って。
たぶん、声は笑ってたけど目は笑えてなかったと思う。愛は気づいてなかった。気づいてなくてよかった。
フォークを持つ手が、少しだけ震えた
そのあとも愛は楽しそうに話し続けた。来週の週末に初めてお泊まりするとか、彼が料理できるらしくて楽しみとか。
私はナポリタンをフォークに巻きながら「うんうん」「えーいいじゃん」「幸せそうだね」を繰り返していた。
ふと、フォークを持つ右手がかすかに震えていることに気づいた。
トマトソースが微妙に揺れてる。
緊張とか怒りとかじゃない。何だろうこれは。嫉妬なのか、焦りなのか、悲しみなのか、名前がつかない。全部が混ざって、指先に出てきてる感じ。
愛が「ねえ聞いて聞いて」ってまたスマホを出すたびに、笑って対応してる自分と、テーブルの下で左手を強く握ってる自分がいた。
そうだ、前にテレビで見た。チョコレートには人を落ち着かせる成分があるとかなんとか。食後のデザートにチョコケーキを頼もうかと一瞬思ったけど、カロリーのことが頭をよぎってやめた。ティラミスにした。なんの話だっけ。
改札を抜けてから、イヤホンをつけた
「またねー!」
駅前で手を振って別れた。愛はこのあと彼氏と合流するらしい。「じゃあまたね、楽しんで」と言いながら手を振る自分の笑顔は、もうたぶん限界だった。
改札をタッチして、エスカレーターを降りて、ホームに着いたところでイヤホンをつけた。
プレイリストからランダムに流れてきたのは、知らないバンドのバラードだった。歌詞は聞き取れない。聞き取れなくていい。音で外の世界を遮断したかっただけ。
電車に乗って、ドアの横に立つ。
窓に映った自分の顔を見て、ああだめだと思った。
目が赤い。
泣いてはいない。まだ。でも泣く手前の顔をしてる。鼻の奥がツンとして、喉の奥に何かがつっかえてる。
悲しいのか、悔しいのか、寂しいのか、わからない。全部かもしれない。
愛のことを嫌いになんかなってない。彼氏ができておめでとうって、本当に思ってる。でもそれと同時に「なんで私だけ」って声が頭の中に響いてて、その両方が本音だから、どっちも消せない。
おめでとうと、なんで私だけ。
この二つが同時に存在してる胸の中が、いちばんしんどい。
次の駅で降りる人が横を通ったとき、その人のコートの袖が私の手の甲にかすった。ほんの一瞬の、布越しの接触。
それだけで泣きそうになった自分に、もう笑うしかなかった。
「恋愛すればいいじゃん」は、もう聞きたくない
こういう話をしたとき、みんな同じことを言う。
「アプリやれば?」「合コン行けば?」「出会いの場に出ないとさあ」
わかってる。わかってるよ。
マッチングアプリは2回やった。1回目は、メッセージの返し方がわからなくて自然消滅。2回目は実際に会った。カフェで向かい合って、相手が話してくれるのに、私は自分の話が何も出てこなかった。沈黙が怖くて天気の話を3回した。帰りの電車で「私ってこんなにつまらない人間だったっけ」と思って、アプリを消した。
恋愛って、「したい」と思えばできるものじゃない。
自分を好きじゃない人間が、誰かに「好きです」って差し出せると思う? 自分に価値があると思えない人間が、「私を選んでください」って立てると思う?
恋愛市場に出るには、最低限のベースがいるんだよ。「自分はここにいていい」って思える程度の、自己肯定感。それがない人間に「恋愛すればいいじゃん」は、足の折れた人間に「走ればいいじゃん」って言ってるのと同じだ。
そもそも私は、自分のことが好きじゃない。それがぜんぶの根っこにある気がする。でも今日はそこまで掘る元気がない。
ベッドの中、Instagramを開いてしまった夜
夜。お風呂に入って、髪を乾かして、ベッドに潜った。
開かなきゃいいのに、Instagramを開く。
愛のストーリー。彼氏と行ったカフェの写真。「幸せすぎる日曜日」ってテキストが載っている。さっき別れたあとに行ったんだろう。
別の友達。婚約指輪の写真。「はい、って言いました」。
また別の子。旦那さんとお揃いのスニーカー。
みんな、進んでる。恋愛して、結婚して、家庭を持って。25歳って、そういうことが起きる年齢なんだ。
私だけ、止まってる。
去年と同じ部屋で、同じベッドで、同じように天井を見てる。
Instagramを閉じた。でもなんかもうスマホを触る気力もなくて、枕の横に放り出す。
暗い天井を見つめながら考える。
私が本当に欲しいのは、「彼氏」なのか。
たぶん、違う。少なくとも、それだけじゃない。
愛のLINEを見て胸が苦しくなったのは、「彼氏がいること」への嫉妬じゃなくて、「自分を日常的に気にかけてくれる人がいること」への渇望だったんだと思う。
「気をつけてね」って言ってもらえること。「大丈夫?」って聞いてもらえること。自分の存在を、誰かが毎日のなかで覚えていてくれること。
それは恋人じゃなくても成り立つものなのかもしれないし、恋人じゃないと手に入らないものなのかもしれない。
わからない。
わからないけど、今の私にはそのどっちもない。
ベッドの右半分は空いていて、枕は一つで、部屋の温度は私の体温だけで成り立っている。
明日も会社に行って、「おはようございます」って笑う。それはできる。それだけはできる。でもそれ以外のことが、だんだんできなくなってきている気がする。
寝よう。考えるのは、もうやめたい。
でも目を閉じると、愛が差し出したスマホ画面が浮かぶ。「気をつけて帰ってきてね」。あのなんでもない一文が、まだ胸に刺さったままだ。
抜けない。今日は、抜けそうにない。

