予約した日から、一日もぐっすり眠れなかった。
当日の朝、アラームより30分早く目が覚めて、シャワーを2回浴びて、4回着替えて、それでもまだ「準備できた」とは思えない。
女性用風俗の体験当日、私の朝はこんなふうに始まった。
目が覚めたのは、アラームの30分前だった
5時半。
まだ外は薄暗い。枕元のスマホを見て、今日の日付を確認した。間違いない。今日だ。
お腹のあたりが、きゅっと縮む感覚があった。緊張なのか、不安なのか、よくわからない。とにかく身体が「今日は普通の日じゃない」って知っている。
布団の中でしばらく天井を見ていた。このまま目を閉じて、もう一回寝て、起きたら全部なかったことにならないかな、と思った。ならない。予約は入っている。今日の午後、私は女性用風俗のセラピストさんに会う。
起き上がって、カーテンを開けた。薄い朝の光が部屋に入ってくる。
とりあえずシャワーを浴びよう。そう思って、バスルームに向かった。
まだ朝の6時なのに、もう1回シャワーを浴びた

最初のシャワーは、いつも通りだった。髪を洗って、身体を洗って、出た。
タオルで髪を拭きながら、ドライヤーをかけて、化粧水をつけて。ここまでは普通。
でも、下着を選ぶ段階で手が止まった。
前に、当日の準備のことで頭がいっぱいになったことを書いたけど、あのときはまだ「いつか行くかもしれない」の段階だった。今日は「今日行く」だ。重みが全然違う。
引き出しを開けて、下着を並べた。普段使いの、くたびれたベージュのブラ。
ちょっとだけいいやつの、黒いレースのもの。去年セールで買って一度も着ていない、淡いグレーのセット。
どれがいいんだろう。
いや、そもそもセラピストさんに下着を見られるのかどうかもよくわかっていない。コースの内容によっては見られないかもしれないし、見られるとしても相手はプロだから、下着がどうとか気にしないかもしれない。
わかってる。わかってるのに、選べない。
結局グレーのセットを手に取って、やっぱり戻して、黒いのにして、また戻して、最終的にグレーに決めた。着たことがないから、せめて新しいもののほうがいい気がした。理由になっているかどうかはわからない。
服は、もっと迷った。
クローゼットの前で30分、何も決まらない
カジュアルすぎるとだらしなく見えるかもしれない。かといってきれいめすぎると「気合い入ってる」感じがして、それもなんか違う。
1着目。白いブラウスにベージュのパンツ。鏡を見て、なんか面接みたいだと思ってやめた。
2着目。ボーダーのカットソーにデニム。普段着すぎる。今日は普段じゃない。脱いだ。
3着目。カーキのワンピース。これは去年の秋に買ったやつで、割と気に入っている。
鏡の前で横を向いたり後ろを振り返ったりした。悪くない気がする。でもワンピースって、なんかそういう場に行くのに変じゃないのかな。何が「そういう場」なのかも自分でよくわかっていないのに。
4着目。ネイビーのニットに白のスカート。これにした。理由は、もう選ぶのに疲れたから。
着替えが終わって時計を見たら、まだ7時前だった。予約は14時。あと7時間もある。
リビングに行って、お湯を沸かした。マグカップにインスタントのコーヒーを入れて、ソファに座った。
飲みながら、スマホで天気予報を見た。晴れ。気温は17度。午後から少し風が出るらしい。
天気予報なんて、今どうでもいい。でも他に見るものがない。いや、ある。予約の確認メール。集合場所の地図。コースの内容。全部もう何回も見たけど。
コーヒーを一口飲んで、マグカップをテーブルに置いた。
なんだか身体がべたつく気がした。さっきシャワー浴びたばかりなのに。緊張で汗をかいているのかもしれない。
もう一回シャワー浴びよう。
2回目のシャワーを浴びながら、自分がおかしいことはわかっていた。
朝の6時台にシャワーを2回浴びる人間が、まともなわけがない。
でも止められない。身体をきれいにしておかないと、という強迫的な気持ちが、お湯と一緒に流れてくる。
準備なのか、逃避なのか
シャワーから出て、また同じ服を着た。髪をもう一度乾かしながら、鏡の中の自分を見た。
目の下にうっすらクマがある。昨日、あまり眠れなかったから。予約のボタンを押したあの夜から、ぐっすり眠れた日は一日もない。
化粧をしようと思って、ポーチを開けた。下地を塗って、ファンデーションを重ねて、眉を描いて。ここで手が止まった。アイシャドウ、どうしよう。
普段はブラウン系を薄くのせるだけ。でも今日はどうすればいいんだろう。
がっつりメイクしたら「頑張ってきました」感が出てしまう。薄すぎたら、疲れた顔に見えるかもしれない。
結局いつも通りのブラウンを薄くのせた。いつも通りが一番ましな気がした。
鏡を見ながら、ふと思った。
私、誰のために準備してるんだろう。
セラピストさんのため?違う。きっと自分のためだ。
「ちゃんと準備した」という事実が、自分を安心させるために必要なんだと思う。
準備している間は、考えなくて済む。今日これから何が起こるのかを、考えなくて済む。
だから4回着替えたのも、シャワーを2回浴びたのも、全部逃避なのかもしれない。
まだ8時。あと6時間ある
化粧が終わって、持ち物を確認した。財布、スマホ、ハンカチ、ティッシュ、リップ。
予約確認のメールをもう一度開いた。場所、時間、コース名。全部覚えている。
でもまた確認してしまう。間違っていたらどうしよう。日にちを間違えていたら。時間を1時間勘違いしていたら。
大丈夫。合ってる。何回見ても合ってる。
スマホを閉じて、テーブルの上に置いた。
8時13分。
あと6時間弱。この時間を、どうやって過ごせばいいんだろう。
掃除でもしようかと思って、掃除機を出した。リビングに掃除機をかけて、キッチンの床も拭いた。
洗面台の鏡を磨いた。トイレ掃除もした。普段やらない場所まで手が伸びる。
掃除が終わっても、まだ9時前だった。
テレビをつけた。朝の情報番組をぼんやり見る。桜の開花予想をやっていた。来週あたり、東京は見頃らしい。
桜か。来週の自分は、どんな気持ちで桜を見るんだろう。今日のことを経験した後の自分は、今と何か違うんだろうか。
考えても仕方ない。
テレビを消して、本棚から適当に文庫本を引っ張り出した。3ページ読んで、何も頭に入っていないことに気づいた。文字が目を滑っていく。
本を閉じた。
ソファに座って、膝を抱えた。
怖い。
やっぱり怖い。予約したときの覚悟はどこに行ったんだろう。
あのとき「もう戻れない」と思ったはずなのに、今になって全力で戻りたくなっている。
キャンセルの電話をしたい。「すみません、やっぱり今日は体調が悪くて」って言えば、きっとキャンセルできる。
スマホに手を伸ばしかけて、やめた。
キャンセルしたら、また同じことの繰り返しだってわかってる。
予約して、怖くなって、やめて、また調べて、また予約して。そのループを何回繰り返すのかと思ったら、今日行くほうがまだましな気がした。
ましな気がした、というだけで、行きたいわけじゃない。
でも、行かなきゃいけない気がする。自分のために。
お腹が鳴った。そういえば朝ごはんを食べていない。食パンを焼いて、バターを塗って、無理やり口に入れた。味がよくわからなかった。緊張すると味覚が鈍くなるのかもしれない。
食パンを半分残して、皿を洗った。
時計を見た。
9時42分。
まだ、4時間以上ある。

