エレベーターの鏡に映った自分の顔が、行きと違っていた。眉間のしわが消えて、奥歯の噛み締めがゆるんでいる。
女性用風俗の体験を終えた直後、ホテルから駅までの帰り道で気づいた小さな変化。
劇的なことは何も起きていない。ただ、顔が柔らかくなっていた。
帰りのエレベーターで、自分の顔が柔らかくなってるのに気づいた
エレベーターのドアが閉まった瞬間、正面の鏡に自分が映った。
髪がまだ少し湿っている。化粧直しはしたけど、目元のアイラインがいつもより薄い。たぶん泣いたせいで落ちたまま、うまく引き直せなかったんだと思う。
でも、顔つきが違う気がした。
眉間の力が抜けている。口元がゆるんでいる。いつも無意識に噛み締めていた奥歯が、今は離れている。
女性用風俗の体験を終えて、ホテルのエレベーターの中で、私はしばらく鏡の自分を見ていた。
さっきまでいた部屋のにおいがまだ手のひらに残ってる
ロビーに出たら、外の空気が思ったより冷たかった。
汗をかいていたのかもしれない。首筋がひやっとして、肩をすくめた。でもそれが不快じゃなかった。むしろ心地いい。身体の内側がまだほんのり温かくて、外気との温度差がちょうどよかった。
手のひらを見た。
さっきまでいた部屋のボディソープの匂いが、うっすら残っている。セラピストさんが使っていたのと同じやつ。名前は知らないけど、柑橘系の、すっきりした香り。
歩くスピードが変わっていた
ホテルの自動ドアを抜けて、さっき来た道を逆に歩く。
行きはあんなに怖かった。ネオンの看板を見るたびに胸がざわついて、足が重くて、何度も引き返そうとした。
今は違う。同じ道なのに、景色がぼんやり明るく見える。
歩くスピードが遅い。急ぐ理由がないからだと思う。
いつも早歩きだ。通勤のときも、買い物のときも、コンビニに行くだけでも、なぜか急いでいる。追われているわけでもないのに、ゆっくり歩くことが苦手だった。
それが今、ふつうに歩けている。
信号待ちで立ち止まったとき、向かいのドラッグストアの看板がやけに鮮明に見えた。こんな店あったっけ。行きには気づかなかった。たぶん緊張で視界が狭くなっていたんだろう。
ふと、このブログを最初に書いた夜のことが頭をよぎった。
「誰にも触れられない生活がもう2年になった」って、泣きながらスマホに打ち込んだ夜。
あの夜の私が今の私を見たら、どう思うんだろう。
駅までの道で考えていたこと
大通りに出ると、休日の人波に混ざる。カップル、家族連れ、犬の散歩。
普段なら目を逸らすような光景が、今日はそこまで刺さらない。
なんだろう、この感覚。嫉妬が消えたわけじゃない。でも、鋭さが鈍くなっている。トゲの先が丸くなったみたいな。
駅に着いて、改札をくぐった。ICカードをタッチする手が、行きのときとは全然違う。
行きは指先が冷えて、カードを落としそうだった。今はちゃんと握れている。それだけのことなのに、なんだか泣きそうになった。
泣いてばかりだ、今日は。
電車の窓に映った自分が、知らない人みたい
電車に乗って、空いている席に座った。
ドア横の窓ガラスに自分の顔がぼんやり映っている。さっきエレベーターで見たのと同じ顔。眉間にしわがない。口角が、わずかに上がっている。笑っているわけじゃない。ただ、力が入っていないだけ。
いつもの自分の顔を思い出してみる。
朝、洗面台の鏡で見る顔。眉間にうっすら縦じわが入っていて、唇をきゅっと結んでいる。通勤電車で窓に映る顔は、もっとひどい。目の下のクマと、何かに耐えているような表情。
会社のトイレで泣いたあの日、鏡に映った自分が怖かった。目が充血していて、ファンデーションがまだらに崩れていて、でもそれより何より、表情が死んでいた。
今の顔は、あのときと同じ人間のものとは思えない。
たった2時間。たった2時間で顔ってこんなに変わるものなんだ。
スマホを見る気にならなかった
ふだん電車に乗ると、無意識にスマホを触る。SNS、ニュース、通販サイト、何かを見ていないと落ち着かない。
今日は鞄の中にスマホを入れたまま、取り出す気にならなかった。
窓の外の景色を見ていた。流れていくマンションの屋上、洗濯物、ベランダの植木鉢。どれも普段は目に入らないものばかり。
電車が橋を渡るとき、川面に夕日が反射してオレンジ色に光っていた。
きれい、と思った。
それだけのことなんだけど。ただ「きれい」と思っただけ。
でもここ最近、何かを見て「きれい」と感じた記憶がない。
仕事して、帰って、寝て、また仕事して。その繰り返しの中で、景色に感情を動かされることなんてなかった。
感覚が戻ってきている、のかもしれない。
それとも、今だけの一時的なものかもしれない。わからない。
家に着いて、靴を脱いで、そのまましゃがみこんだ
最寄り駅から家までの10分も、ゆっくり歩いた。
イヤホンをしなかった。いつもは音楽かポッドキャストを聴きながらじゃないと歩けないのに、今日は外の音だけで十分だった。自転車のベル、遠くの踏切、どこかの家のテレビの音。
マンションのエントランスを開けて、階段を上がって、鍵を回して、部屋に入った。
靴を脱いだ瞬間、しゃがみこんでしまった。
泣いているわけじゃない。疲れたわけでもない。ただ、ふっと力が抜けた。
玄関の床に座り込んで、天井を見上げた。蛍光灯が白い。いつもの部屋。いつもの天井。何も変わっていない。
変わったのは私のほうだ。
お風呂に入ろう、と思ったけど、しばらく動けなかった。
身体の表面にまだ、誰かの手の温度が残っている気がする。背中、肩、腕。触れられた場所がうっすらと温かい。気のせいかもしれない。でもそう感じている自分がいる。
これを「よかった」って言っていいのかわからない
ようやく立ち上がって、パジャマに着替えた。
ベッドに座って、ぼうっとしている。
よかった、のだと思う。たぶん。
でも「よかった」って思うことに、まだ抵抗がある。
女性用風俗の体験の感想が「よかった」って、それでいいの? お金を払って男の人に触れてもらって、泣いて、帰ってきて、「よかった」?
情けないとか、恥ずかしいとか、そういう気持ちが消えたわけじゃない。
でも、今はそれよりも、身体がゆるんでいる感覚のほうが大きい。ずっと締めていたネジが少しだけゆるんだみたいな。
これが女風を体験した後の感想なんだと思う。劇的な何かがあったわけじゃない。映画みたいな感動があったわけでもない。
ただ、顔が柔らかくなっていた。歩くスピードが遅くなっていた。川を見て「きれい」と思えた。
それだけのこと。
それだけのことが、今の私にはすごく大きい。
明日の朝、鏡を見たときにこの顔が残っているかはわからない。月曜日にはまたいつもの眉間のしわに戻っているかもしれない。
でも今夜は、このまま寝よう。
布団に入って、電気を消して、目を閉じた。誰かの手のひらの温度を、まだ覚えている。

